プロローグ

ー運命の予感ー

冬の冷たい空気が診療室に満ちていた朝のことでした。父の診療台に腰掛けながら、私は自分の将来を漠然と考えていました。当時中学生だった私の目の前で、父は患者さんの治療に没頭していました。その手の動きは繊細で、まるで芸術家のよう。「歯科医師ってこんなにも素敵な仕事なんだ」。その時の感動は、今でも鮮明に覚えています。

その光景を見た日から17年。まさか自分があんなにも早く父の後を継ぐことになるとは、誰が想像できたでしょうか。

第一章: 原点

ー1980年、新しい命ー

1980年2月22日、埼玉県の病院で最初の泣き声を上げた時、周りは祝福に包まれていたと母は語ります。歯科医師の父と歯科衛生士の母、そして後に生まれた妹。私たち家族の物語は、そこから始まりました。

父の姿は今でも鮮明に覚えています。白衣を着た後ろ姿は凛として、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせていました。診療室では厳格な歯科医師でしたが、家では無口ながらも優しい父でした。

幼い頃、私たちは埼玉県大宮の盆栽町で過ごしました。その後、父の実家がある群馬県に戻り、私が3歳の時に大川歯科医院を開業しました。実家と診療所が同じ敷地内にあったことで、私は自然と歯科医院の空気を吸って育ちました。

ある日の出来事は、特に心に刻まれています。幼い私がお弁当のおかずにぐずっていた時、父は珍しく烈火のごとく怒り、弁当箱を外に放り投げました。「お前は食べなくていい!」その叱声は今でも耳に残っています。後になって気づいたのです。前日に受けた歯の治療でセメントの味が気持ち悪く、何も美味しく感じられなかった私の気持ちを、父は誰よりも理解していたのかもしれません。その後、父は黙って新しいお弁当を作ってくれました。

第二章:少年の日々

ー好奇心という名の贈り物ー

小学生の頃の私は、誰よりも活発で好奇心旺盛な子供でした。参観日の教室で、先生の質問に対して思わず教壇まで駆け寄り、「私に答えさせてください!」と全身で訴えかけるような子供。母は恥ずかしさで顔を真っ赤にしていましたが、今思えばそんな純粋な情熱こそが、私の原点だったのかもしれません。

特に忘れられないのは、学校の屋上からの観察授業での出来事です。クラスメートが当たり前のように家や木、電車を報告する中、私だけが違うものを見つけました。荷物を満載したトラックを必死に追いかける一匹の野良犬の姿を。「可哀想だから、ずっと見ていたんです」という私の説明に、母は「優しい子に育ってくれて良かった」と、今でも当時の話をしてくれます。

第三章:運命の交差点

ー東京歯科大学への道ー

白鴎大学附属足利中学校、佐野日大附属高等学校と進学するなかで、私の心には常に一つの影がありました。幼い頃から見てきた父の姿。「本当に自分に、あの背中を追いかける資格があるのだろうか」という思いです。

しかし、運命は不思議なものです。紆余曲折を経て、東京歯科大学に現役合格を果たした時、父は珍しく満面の笑みを見せてくれました。「よくやった」。たった一言でしたが、その言葉の重みは今でも心に残っています。

大学では水泳部と軽音楽部に所属し、友人たちと青春を謳歌しました。朝まで語り明かした夜、部活での涙、時には激しい喧嘩も。しかし、その全てが今では宝物です。大川家では私で5代目、親戚含めると12人目の歯科医師。その重みを感じながらも、仲間たちと過ごした日々は、かけがえのない思い出となりました。

ただ、私は決して優秀な学生ではありませんでした。興味のない科目には手が付けられず、基礎科目の試験では散々な成績を取り続けました。「このままでは留年も」と周囲から心配される日々。そんな甘えた生活を送っていた時、運命は残酷な形で私に警鐘を鳴らしました。

第四章:喪失と覚醒

ー人生最大の転換点ー

大学4年生の冬。その日は普段と変わらない寒い朝でした。突然の電話で病院に駆けつけた時、父はすでに意識不明の重体でした。持病の糖尿病から脳梗塞を発症。「もう手遅れです」。医師の言葉が、まるで遠くから聞こえてくるようでした。

父の死は、私の人生における最大の転換点となりました。残された借金の存在を知り、現実の厳しさを思い知らされる一方で、不思議なことに心の中には確かな覚悟が芽生えていました。

「もう逃げることはできない」

その日から、私は人が変わったように勉強に打ち込みました。留年は絶対に避けなければならない。家族を支えるため、返済のため、そして何より父との約束を果たすため。金融機関との返済条件には、私が実家の歯科医院を継承するという重要な前提があったことも知りました。

気がつけば、私の周りには一緒に勉強をする仲間が自然と集まっていました。深夜まで図書館に籠もり、分からないところを教え合い、時には励まし合いながら、必死で勉強を続けました。

特に国家試験前の日々は、今でも鮮明に覚えています。友人たちと目を真っ赤にしながら問題を解き、互いに教え合い、支え合い。時には疲れ果てて机に突っ伏すこともありました。しかし、不思議なことに、以前のような逃げ出したい気持ちは全くありませんでした。

父の形見となった聴診器を握りしめながら、「必ず歯科医師になって、父の意思を継ぐんだ」。そう自分に言い聞かせる毎日でした。そして、ついに試験当日を迎えました。試験会場に向かう朝、父の位牌に「行ってきます」と声をかけた時、不思議な確信がありました。「きっと大丈夫」という静かな強さが、心の中に芽生えていたのです。

そして迎えた合格発表の日。自分の受験番号を見つけた瞬間、これまでの緊張が一気にほぐれ、涙が止まりませんでした。すぐに実家に電話をし、母と妹と喜びを分かち合いました。その後、父の位牌の前で報告した時は、まるで父が優しく微笑んでいるような気がしました。

しかし、これは終わりではなく、新たな戦いの始まりでした。国家試験合格の知らせと同時に、これまで猶予されていた債務の返済が待ち構えていました。厳しい現実が目の前に立ちはだかる中、私は次のステップに向けて歩み始めることになります。

第五章:新たな船出

ー希望と現実の狭間でー

国家試験合格の喜びもつかの間、現実は容赦なく襲いかかってきました。これまで母が必死に抑えてきてくれた借金の全容が、徐々に明らかになっていきました。返済猶予の条件には私の歯科医院継承が前提とされていましたが、即座の開業は現実的ではありません。一刻も早く収入を得て、返済を始めなければならない――。そんな切迫した状況の中、就職活動が始まりました。

多くの歯科医院では、新人歯科医師の育成に時間をかけるのが一般的です。しかし、私にはその余裕はありませんでした。より多くの症例を経験し、早く一人前になれる環境を必死で探しました。

そんな中で出会ったのが、医療法人社団海星会の求人でした。新規開業のクリニックのオープニングスタッフという条件に、私は一筋の光明を見出しました。「新しい医院なら、怖い先輩もいないはず」。そんな単純な考えで問い合わせをしたのが、川本先生との運命的な出会いとなりました。

面接で、私は全てを正直に話しました。歯科医師としては未熟であること、借金を抱えていること、そして必死で成長したいという想い。予想に反して、川本先生は優しく微笑んで聞いてくださいました。

「大川君、それは君の目を見ていれば分かる。必ず成長できる」

その言葉に、思わず涙が込み上げてきました。父の死後、初めて感じた温かな信頼。それは私に新たな勇気を与えてくれました。

こうして私の勤務医としての日々が始まりました。予想とは異なり、本院、分院、往診と、様々な現場で学ぶ機会を得ることになります。それは時に厳しい道のりでしたが、この選択が後の私の大きな財産となっていくのです。

第六章:試練の日々

ー勤務医としての成長ー

医療法人社団海星会での勤務が始まり、私は期待と不安の入り混じった日々を送っていました。川本先生の「必ず成長できる」という言葉を胸に、必死で学び続けました。

最初の数ヶ月は、まさに修行のような毎日でした。朝は院長について本院で、午後は分院へ移動し、往診に同行する。診療の合間には技工作業を学び、患者さんがいない時は器具の取り扱いを練習する。まさに、寝る間を惜しんで技術を吸収していました。

ある日の出来事は今でも鮮明に覚えています。入れ歯の調整を任された私は、診療台に置かれた総入れ歯を手に取り、まるでおもちゃのように両手で合わせ確認していました。周りからクスクス笑い声が聞こえ、ベテランのスタッフに「患者さんの口の中で確認するんですよ」と優しく指摘されました。恥ずかしさで顔が真っ赤になりましたが、その失敗が貴重な学びとなりました。

月末になると給料のほとんどが返済に消えていく生活。昼食も満足に取れない日々が続きましたが、スタッフたちが時々お弁当を分けてくれました。「先生、一緒に食べましょう」という何気ない言葉に、どれほど救われたことでしょう。

必死の努力が実を結び、徐々に担当患者さんが増えていきました。最初は基本的な処置しかできなかった私も、次第に難しい治療にも挑戦できるようになっていきました。特に嬉しかったのは、「大川先生に診てもらいたい」とリクエストしてくださる患者さんが増えていったことです。

第七章:継承と発展

ー医療法人として新たな歩みー

勤務医として充実した日々を送る中、ある決断の時が訪れました。実家の大川歯科医院を継承する時期が来たのです。不安はありましたが、川本先生の「今なら大丈夫だ」という言葉に背中を押され、開業への一歩を踏み出しました。

継承当初は想像以上の苦労がありました。古い医療機器の更新、電子カルテの導入、スタッフの教育体制の確立など、やるべきことが山積みでした。しかし、父の時代からの患者さんが温かく迎えてくれたことが、何よりの励みとなりました。

特に印象に残っているのは、ある高齢の患者さんの言葉です。「お父様と同じ優しい手つきをしているわね」と言われた時は、思わず涙が込み上げてきました。父から受け継いだものは、単なる技術だけではなかったのだと実感した瞬間でした。

開業から数年が経過した頃、医療法人化という新たな挑戦に踏み出しました。「地域に寄り添う、先進的な歯科医療」という理念は、父の想いと私の経験を融合させたものです。最新のインプラント治療、訪問診療の拡充や予防歯科の強化など、新しい取り組みも始めました。

エピローグ

ー永遠なる継承ー

診療室の窓から差し込む朝日を見ながら、時々考えます。父が遺してくれた大切なものは、単なる歯科医院ではありませんでした。それは、地域の人々との信頼関係であり、患者さん一人一人との真摯な向き合い方でした。

先日、父の代からの患者さんが孫を連れて来院されました。三世代にわたる診療を任せていただける喜びと責任を、深く感じる瞬間でした。

診療室に飾られた父の写真を見上げる度、私は問いかけます。「今の私を見てどう思いますか?」と。きっと父は、厳しくも温かい眼差しで見守ってくれているに違いありません。

そして今、新たな夢があります。いつか我が子に、この大川歯科医院を誇りを持って託すこと。それは父への最高の恩返しになるはずです。歯科医療を通じて人々の人生に寄り添い、幸せに貢献できる。この仕事に出会えたことを、心から感謝しています。

技工室で古いアルバムを見つけた日、幼い頃の写真に目が止まりました。ミニ四駆を一緒に改造する父と子の笑顔。その優しい瞬間が、今も私の心を温かく照らし続けています。

これからも、一人でも多くの笑顔のために。父が遺してくれた、かけがえのない贈り物を胸に、私たちの物語は続いていきます。

ー続くー

失ったものを、取り戻す。 【噛める喜び、創ります。】
群馬県太田市の歯科医院
Googleレビュー4.6 口コミ数 232件
厚生労働省認定
第2種 体性幹細胞再生療法

第3種 多増殖因子血漿内因子再生療法
高度再生医療認定医機関
かかりつけ機能強化型歯科診療機関
インプラントリカバリー・かみ合わせ専門医院
住所:群馬県太田市矢場新町118-4
電話番号:0276-46-8750

自己紹介

医療法人 大川歯科医院
理事長 大川 孝平

群馬県太田市の厚生労働省高度再生医療 第2種、第3種認定機関、厚生労働省かかりつけ機能強化型歯科診療所認定機関である、医療法人大川歯科医院を2009年に開業。難度の高い自己血再生インプラント治療オールオン4ザイゴマインプラント治療などを応用し全顎的な治療計画アプローチを得意とし、他院での予後不良の症例を高度な再生医療を応用しリカバリーする。また、噛み合わせ治療の中にボトックス療法を採用し、長年噛み合わせの悩みに苛まれてきている患者様の一助になっている。全身的な免疫療法として自己幹細胞を応用した点滴療法高濃度ビタミンC点滴など各種高度な点滴療法を応用している。診療日の昼休み(12時~13時)にはインプラントや再生治療の無料相談も行っており、それから派生したX Spaceでの相談スペースにも取り組んでいる。またStandFMなどの音声配信、TicTokライブでのお悩み相談のほか、地元FMラジオ局(FM TARO 76.7MHz)の番組で「ハノコトちゃんねる」メインパーソナリティとして歯科専門的な立場から多くのゲストと共演し、皆様の健康にお役立ち情報も積極的に配信している。

略歴

東京歯科大学卒
IDIA アメリカインプラント学会 認定医・専門医・指導医
LEI 国際レーザー学会 レーザー認定医
UCSFカリフォルニア大学 歯科用レーザー認定医
アメリカ インディアナ大学 ホワイトニング認定医
口腔がん撲滅委員会 蛍光観察認定歯科医師
(ベルスコープ:VELscope VX®)
JDA日本歯科医学振興機構 臨床歯科麻酔管理指導医
日本再生医療学会 正会員
再生医療ビジネス協会 認定医
一社)日本口腔再生治療協会 理事
点滴療法研究会 高濃度ビタミンC点滴認定医
JSOMオーソモレキュラー医学会 正会員
OND(オーソモレキュラーニュートリションドクター)ディプロマ
臨床水素治療研究会 正会員
オールオンフォーアカデミー 正会員